2019年9月13日金曜日

日光サンガ 9月の「気づきの日」瞑想会の報告(2)



(アンフーンさんの法話の続き)

時々、私も大きな寂しさ、孤独感に襲われるときがあります。
誰も私の傍にいてくれない… 誰も私のことを理解してくれない…
そんな時、私は静かに座ったり、横たわった状態で、両手で自分の身体を抱きしめるようにして、ゆったりと呼吸をします。
そうすると、いつも気分が楽になってきます。
寂しさ、孤独感、怖れが和らいできます。

時々、私は頭を使って歩いていて、自分の足元が床には無くて、空の上をフラフラと歩いているような感覚になることがあります。
多くの考え事に囚われて、頭が重くなっているように感じられる時があります。

そんな時にも、横たわって、両手で自分の身体に触れて、ゆっくりと息を吸い、息を吐きます。
そうして、私はいつも自分の身体に戻っていき、バランスを取り戻します。

マインドフルに自分の身体に触れ、息を吸って、息を吐くと、私の心は身体に戻ります。
私は私のために、ここにいることが出来るようになります。
自分のことを癒してあげることが出来ます。

マインドフルネスの種は一人ひとりの中に必ずあります。
マインドフルになるという能力は一人ひとりが持ち合わせています。

私達がマインドフルネスの実践をする時、
マインドフルに呼吸をする、マインドフルに歩く、マインドフルに食べる時、
私達は自分の中にあるマインドフルネスの種を少しずつ育てていくことが出来ます。

マインドフルネスのエネルギーとは、
今この場所に存在して、愛するためのエネルギーです。

そして、私達がマインドフルな呼吸を実践するとき、
マインドフルネスのエネルギーを高めることが出来ます。

今この場所に存在して、愛するエネルギー
今この場所に私が存在していることを、肯定するエネルギー
今この場所にいることを、受容して受け入れるエネルギーです。


私がマインドフルネスの実践を始める前、
私が孤独や不安を感じると、”何かをしなければならない”という気持ちに急き立てられていました。
その孤独や不安と対峙しなくても済むように。

でも、私がマインドフルネスの実践をするようになってからは、サンガという大きな支えにも助けられて、孤独や不安を感じる時には、両手で自分の身体を抱きしめるようにして、呼吸をして、その孤独や不安を自分で癒してあげられるようになりました。

両手で自分の身体を抱きしめて、ゆったりと呼吸をする実践を通して、私が学んだことは、
今の自分の状態、今、自分が孤独を抱えているという状態を、ありのままに受け入れるということを学びました。

今、自分は孤独や不安を感じているが、そこから逃げ出さなくても良い。
そのことに「YES」と言い、孤独や不安と共に呼吸をすることが出来る、ということを学びました。

タイ(ティク・ナット・ハン師の愛称)から多くの法話を聞きましたが、どの法話の内容も私にとっては難しく感じられました。
多くの法話を聞いても、自分の中に孤独感や不安を感じると、その感情から逃げ出したいという習性が根強く、孤独感や不安から逃げ出そうとする衝動が湧き上がって来ていました。

”自分のありのままの感情を受け入れたくない”という習性は実に根強いものでした。
ですから、この習性から抜け出すことは実に難しいものでした。
私の周りの人々も、私の家族でさえも、同じ習性を抱えていました。
ですから、新しい習慣を取り入れることは、決して容易ではありませんでした。

ですが、私は少しずつ学んでいきました。
今の自分の状態に「YES」と言い、今の自分の身体と心の状態を受け入れて、そのありのままの状態で呼吸をするということを少しずつ学んでいきました。
そうして、何年も何年も実践を積み重ねることによって、この新しい習慣が自分の中で定着していくようになりました。

孤独感や不安を感じる時は、そのことに気付くようになりました。
そして、両手で自分の身体を抱擁して、そのありのままの状態を受け入れて呼吸をすることが出来ることを学びました。

そして、これがマインドフルネスであり、
私の身体を抱擁しているその両手は、私の手では無く、ブッダの手です。
ブッダの手によって、自分の中に起きている孤独感や不安に気づき、
ブッダの手が、その孤独感や不安を受け入れて、それを抱擁するようになります。

私は、私自身を揺りかごの中にいれて揺らしてあげるように、
あるいは、ブッダの手によって抱擁されているように
あるいは、私自身が赤ちゃんの時に、お母さんが愛を持って抱きしめてくれた時のように、
自分で自分をあやして、ゆるします。

そのように、私自身を揺りかごの中に入れて揺らしてあげること、抱擁すること、あやして、ゆるしてあげること、
それを繰り返すと、必ず、私の中に、暖かいものが流れ、落ち着き、平安というものがじわじわと広がっていきます。

とても興味深いことは、そのように孤独を感じ、孤独に気づく時、そこには一緒に恐怖心というものもあり、自分が凍って固まったような感覚、とても寒い感覚が必ず一緒にありました。
そして、その孤独や恐怖、凍って固まったような感覚に気づいて、両手で自分を抱擁する実践を行うと、自分の中に暖かいものが流れて、その熱によって自分の中にある氷が融けていくような感覚がありました。

私が孤独や不安、恐怖を感じる時、必ず、自分が凍り固まったような感覚がありましたが、なぜそうなるのかは分かりませんでした。もしかしたら、子供の時からそうだったのかも知れません。子供の時に、そのような出来事が起きると、何も出来なくて、ただ凍り付くことしか出来なかったから、かも知れません。
ですが、実践を通して、自分のその状態を受け入れて、「YES」と言ってあげて、自分で自分を暖めてあげるうちに、その凍り固まったものが融けていきました。
それはまるで奇跡のようでした。

最初の頃は、震える感覚、寒いときのようにガタガタと震える感覚がありました。
そして、しばらくすると、涙が出てきました。
その涙が溢れ出てくると、「あ…自分が今生きているんだ」という実感が出てきました。

時々、私は両手で自分の頬に優しく触れます。
その時、まるで、自分の先生や、ブッダ、尊敬する師匠が私の頬に優しく触れてくれるような感覚になり、まるで、ブッダが私を優しく抱擁してくれるような感覚になり、
暖かいものが私の中にこみあげてきて、涙が出てくるようでした。
それはまるで、暖かい、ブッダの愛のシャワーを浴びているように感じて、涙が溢れ出てきました。
その涙はとても心地の良い、幸せな時間につながりました。

数年前、私達の親愛なるタイ(ティク・ナット・ハン師)が脳出血で倒れ、身体の右側が動かなくなり、左手しか動かすことが出来なくなりました。
タイはリハビリのためにアメリカのサンフランシスコにある弟子の家に滞在されました。
滞在中、タイは揺り椅子に座り、窓から外のゴールデン・ゲート・ブリッジを眺めていました。
私はそんなタイの様子を部屋の入り口から見ることがありました。
そんな時に、私がよく目にしたことは、タイは麻痺した右手を左手で取り、右の頬に優しく当てていることでした。
タイは最初からそのようなことが出来たわけではありませんでした。
ですが、リハビリを少しずつ重ねていくうちに、麻痺した右手を左手でゆっくりと取って、ご自身の右の頬に当てることが出来るようになりました。
タイはその動作をゆっくりと丁寧に行っていました。そして、右手を右の頬に当てる時には、とても深い愛情を込めて行っていることが感じられました。

私達はタイの教え子として似たようなことが起きているとも言えます。
私達の中にも、どこか麻痺している部分があります。
そんな時、私達はタイと同じように、
タイが麻痺した右手を誘導して、右の頬に優しく触れた時のように、
自分の中の麻痺した身体や感情などを、
抱擁して、癒してあげることが出来ます。
それがブッダから私達に教えられた瞑想の実践です。

脳出血で倒れてからというもの、タイはずっと車椅子で生活をされ、私達の前で法話をすることもないまま、5年が過ぎました。例え、直接的な法話は無くても、その存在、あり方によって、タイはいつでも私達に多くの教え、愛、癒しを与えて下さっています。

それはタイの心の中に、非常に深い慈悲の念が私達に向けられているからです。

痛みに対して、決して「NO」、否定をすることなく、常に「YES」、受け入れる。
自分自身の身体の痛みだけでなく、孤独、不安、怖れといった心の痛みに対しても、共に呼吸をして、抱きしめること。
タイがされていた、麻痺した右手を左手で誘導して、右の頬に優しく触れた、その動き、胃イメージというものを、皆様も、ずっと、心の中で持っていてください。

私達がこのようなことを出来ると、麻痺した部分を、麻痺していない部分によって癒してあげることが出来るようになると、
私達の人生に対しても、人生の痛みや苦しみに対しても、「YES」、肯定や受け入れることが出来るようになります。

それでは、これから鐘を招いて、呼吸をし、
その後に、ディープリラクゼーションの時間に入ります。

これから、鐘を招きますが、
先ほどお話ししたように、自分の手で頬に触れる、自分の手を胸に当てるなど、
自分が心地良いと感じられるものを見つけて、
鐘の音と共に、一緒に呼吸を味わいましょう。

ありがとうございました。

(法話終わり)

(次回に続きます)

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